日高摩梨のシャンソン思考

シャンソンとは、日本語に直すと「歌」                                    でも、シャンソンと呼ばれる歌は掘り下げてみると非常に面白いことが判った。フランスにおいて今日親しまれているスタイルは多様性を持ち、コミカル専門やシリアス専門、文学的シャンソン専門、ドラマティック専門などそれぞれが自分のスタイルを披露していた時代もあったほどで、今風の何でもありではなかったけれど、次第にこれらは融合し、今日風に昇華していった。「ハハハの歌」ただ全曲ハハハとしか歌わないものや、「歯医者の白衣」こちらは口を開けて歯の治療の真っ最中、全く言葉にはならないけれど(判る、解る、理解る)と思わずウンウンしてしまう物 などそのレパートリーは際限もないほど。                               あの「黒い鷲」や「いつ帰ってくるの」などのヒットを生んだバル・バラにも、「旦那様のお友達」などという際どい歌を作っているのですから、やはり底は広いと言えます。              音楽は「リズム・メロディー・ハーモニー」が基本で、少し前の時代には知らない曲でもその先が読めたものだが、現代の流行歌はこれらを無視したものも多く、我らが昭和生まれの人間にはついて行けないところも多々ある。                                     ではシャンソンとはどう違うのかと言えば、冒頭に書いたように多様性があるということが挙げられる。そして、それらが鮮やかな色彩を放つようになったのはエディット・ピアフの登場です。  それまで音楽の三要素で歌われていたものに、新しい息吹を吹き込むことになったからです。 それこそが「現実派シャンソン」…シャンソンレアリスムです。                     譜面を見るとよくわかりますが、最初に作詞、次に作曲、最後に歌唱者となっているはずです。つまり作詞が最初という、とても重要な事が理解ります。                        作者が心に浮かんだ場面などを他人に伝えたいと考える時、表現手段として文字を使います。文字は言葉を観える形にしたものです。                                  言葉とは言靈(ことたま)から生まれるもの、つまり心・魂・霊魂などと呼ばれる部分に溢れ湧いてきたものを一つの形に形成する作業で、このときに日本語では多様な表現技法を用いることも出来ます。                                                   それが漢字であったりカナであったりひらかなだったりするのですが、これらは文学においてその魅力を発揮します。                                             この心などに浮かんだイメージを纏めて普通の言葉に紡ぐ作業でその内容は凝縮され、一つの方向を持ちます。日本語では、その代表的なものが7・5調と呼ばれるもので「何が何して何とやらぁ」と言う組み立て方ですね。これが最初に書いたリズム・メロディー・ハーモニーを内包しています。 ゴロ合わせと呼ばれるものでしょうね。                              作詞家の心を映した言葉を、さらに増幅させるために、とても良く吟味された音律を与える仕事が作曲家の作業です。                                             作詞家の作った仏に作詞家の魂を吹き込むことが、作曲家の手腕。                これを間違えると作詞者の魂の叫びが伝わらないものになる。それを嫌って登場したのが作詞・作曲・創唱という3足の草鞋を履いたシンガーソングライター  でしょう。            こうした多様性のあるものの中で、その歌に魂を吹き込んだのがエディット・ピアフだと言えます。それまでの綺麗・美しいといった歌唱法に現実的な感情を紡ぎこんだ歌唱法の確立です。 この意味を的確な言葉で言い表したのがモーリス・ファノンです。                  彼はそのシンソンの真髄とは「 祈り・願い・叫び」と言いました。                   一つの歌の詞(詩)の内容をこの3つの言葉で分解する作業をすることによって、より作者の心の襞の奥深いところへ寄り添う事が出来、それはまた表現者(歌手)の個性へと繋がってゆきます。                                                        例えば「愛している」と言うフレーズがあった時、それをどのように解釈し、思い(想い・感情)などを表現するのか……で、違いが出てきます。詞全体をよく吟味し、その一つ一つのフレーズは、どのような感情の起伏を伴っているか……それを歌に織り込むことで完成します。        寂しい愛なのか、哀しい愛なのか、また激しい愛なのか、狂おしい愛なのか……様々な場面が思い描かれます。                                                これを助けてくれるのがメロディーとリズムでしょう。これらをうまく調合する薬剤師が歌手の仕事だと思います。エディット・ピアフの「白衣」と言う強烈な歌があります。この曲は一人の女が心の病にかかり、病院へ連れてゆかれる場面が描かれてていて、正気と狂気の狭間を歌い分けるという物。映像などで見ると更にその入れ込み方の凄まじさに魅せられます。          これこそ「祈り願い・叫び」の表現だからです。                              ピアフの育てたミュージシャンの一人、シャルル・アズナヴールの「のらくら者」日本題名は「あきれたあんた」でよく知られていますが、彼の舞台はまさにこの現実派シャンソン歌唱法をとても良く表しています。どこからメロディーに入ったのか、舞台度に違う感じで、以前ジャクリーヌ・ダノさんの舞台に打ち合わせで参加した時、30曲ほどの曲を挙げられました。           「どうやって曲目を絞るのですか?」と伺うと、「舞台の上で匂いを嗅げば決まるのよ」と楽しそうにお茶目な表情を返されました。なるほどそのリハーサルで舞台に上がって最初にやった仕草が鼻を舞台会場に突き出し(くんくん)匂いをかぎ、片目をつむってみせた。            ジャクリーヌ・ダノに触れることでそれまでのシャンソン人生をひっくり返された日高摩梨は、その意味を知るために渡仏、そこからジャクリーヌ・ダノの影響をもろに受け、現実派シャンソンという異次元の世界へ旅立つことになった。                                  彼女にその違いを求めると、じっと目を見つめ手を取り、その手を胸にいざない(ここよ……)と眸で諭してくれた。                                               自分がどのように感じ、それを表現するかは心の構え様次第というわけですね。         では、そのことをわかりやすく書いてみましょう。シャンソンのカラオケ定番「サン トワ マミー」ご存知のように普通によく聴く歌い方を文字で表してみましょう。「ふたりのこ~いは おわったのねぇ~」これを、現実派シャンソン歌唱法で歌うとどうなるか「ふたりのこいは    おわったのね   」おわかりだと思いますが、語尾の空白が問題なのと符割りの違いです。       最初の方を漢字を交えて書くと「二人の行為は 終わったのねぇ?」そんなバカなと想われるなら機会があればカラオケで聴いて見られることをお薦めします。私も愕然としたことを覚えています。更にもう1曲俎に上げてみますと「ケ・サラ」の途中の部分ですが  「アモーレミオ くちずけした  はじめての はげしいこ~い……」漢字に直せば「アモーレミオ 口づけした 初めての激しい行為 ……そんなバカな!はい、まさにその通りですが、よく聴いてみてください、納得します。問題はサン トワ マミーと同じく符割りです。語尾を伸ばすところに落とし穴が潜んでいるということですね。現実派シャンソン歌唱法で歌うと「アモーレ ミオ口づけした  初めての激しい恋」ということになります。言葉や文字の割付を間違えると、このように全く違った解釈にもなるというご教訓です。尤もこの曲はチリのフォルクローレソングライタービクトル・ハラを歌ったもので「ビクトル・ハラを忘れない」という内容であり、彼自身チリクーデターによって反活動家として逮捕され、2度とギターを使えないようにと両手を撃ち抜かれ、それでも歌うのをやめなかったので射殺されてしまった。彼の射殺された場所が現在は「ビクトル・ハラスタジアム」に改名されている。                                                        シャンソンを歌いたいと思うなら、原曲を聴くということはとても重要なことで、その祈り・願い・叫びを聴くことで、自分という心のフィルターを透して表現することを心がけたいものです。    綺麗な声、大きな声パワーのある声……それだけがシャンソン歌唱法ではないということです。ジャクリーヌ・ダノの「ドアノーの写真」なんて曲は、はじめから最後まですべて語りだけのものですが、フランス語の判らない私でも、心を揺るがされました。まさに言葉は言靈だという実例でしょう。声が出なくても、美しくなくても歌えるのがシャンソンではないかとおもえるほどに奥深いものがシャンソンには包み隠されされているのかもしれませんし、それが尤も大きな魅力ではないかと思えてなりません。                                           

                                  日本訳詩家協会 はるのゆうに